大光霊神(たいこうれいじん)は、もとは大光神社の主祭神として勧請されましたが、現在は八雲神社の配神として合祀されています。
 
 大光霊神(霊神さま)は、江戸期茂木藩祖・細川興元(1562~1619)の御霊であり、足利十五代将軍・義昭の側近、細川藤孝(幽斉)の次男で、熊本藩祖・細川忠興(三斎)の弟にあたります。大変武勇に優れ、関ヶ原の合戦の功績により、1610年、茂木25ヶ村、1万石余りで入部し立藩されました。その後、大阪夏の陣でも大きな軍功をあげ、谷田部(現・つくば市)を中心に6千石余りの加増を受けました。
 没後は、茂木の能持院に埋葬。1817年、没後200年に際し、西郭内(現・茂木小学校敷地)に大光霊神として祀られ、これを大光神社を称しました。尚武の神として崇敬を集めておりましたが、昭和19年、歴代茂木藩主の祈願社であった八雲神社に合併遷座され、現在に至ります。
 
 
 
 
【写真】
「大光霊神 関原初陣十四齢御象」 (八雲神社 蔵
大光神社建立の際、第十一代目家老・三岡道徳が、藩祖の姿を思い描いて描いたもの。
 
 
 

 
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 祭神は菅原道真の御霊。江戸期に城山に建立された。
 当時は雷除けの神として祀られたが、江戸後期から学問の神様として崇められる。江戸後期になると、現茂木小学校の敷地に鎮座していた大光神社の境内に、末社として奉られた。同敷地には江戸期細川家茂木領の藩校「弘道館」があり、その学業成就の神として崇敬されたものである。
 大光神社が昭和十九年に八雲神社に合祀された際に、菅原神社も八雲神社境内に遷された。いまも、多くの児童・学生を見守る神社である。
 

 尚武心とは、武を尊ぶ心。末永く武の道を歩み続け、自他共に多幸を成すことを祈願したお守り「尚武守」を頒布しております。
 
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 父の幽斉、兄の忠興、義姉のガラシャは戦国時代を代表する人物です。
 興元も、兄の忠興にも勝る武功と徳により、徳川家康・秀忠父子にも認められました。
 次男ながら一国一城の主として茂木に茂木藩を立藩し、その後、谷田部(現・つくば市谷田部)に領地を加増され、両領地とも谷田部藩となります。
 頻繁に江戸城に上り、秀忠の元で仕えた名将で、谷田部藩では一万六千石の藩ながら十万石並の武道諸芸の指南者が在籍していました。
 
 

【参考】

細川興元(ウィキペディアより)

時代  戦国時代 - 江戸時代前期
生誕  永禄9年(1566年)
死没  元和5年3月18日(1619年5月2日)
改名  頓五郎(幼名)
別名   昌興
戒名  大光院殿雄山韓英大居士
墓所  栃木県芳賀郡茂木町の能持院
官位  従五位下、玄蕃頭
幕府  江戸幕府御伽衆
主君  織田信長→豊臣秀吉→徳川家康→秀忠
藩   下野茂木藩主→常陸谷田部藩主
氏族  細川氏(清和源氏)
父母  父:細川藤孝、母:沼田上野介光兼の娘・麝香
兄弟  忠興、興元、幸隆、孝之
    妹(吉田兼治室)、妹(木下延俊室)
    妹(長岡好重室)
    妹(長岡孝以のち小笠原長良室)
妻   正室:いと(沼田清延娘)
    継室:嘉也(慈光院,立花宗茂養女(高橋鎮種の娘・宗茂実妹)
子   興昌(長男)、鶴姫(高辻遂長側室)、
    養子:興秋 (甥、兄・細川忠興の次男)
 
細川 興元(ほそかわ おきもと)は、安土桃山時代の武将。常陸谷田部細川家初代・下野茂木藩主。のち常陸谷田部藩初代藩主。
 
※注
史料によって生没年日にばらつきがあり、『細川家記』『御家伝略記』は永禄9年(1566年)と記しているが、『細川家譜』は永禄7年(1564年)生まれと記している。信長公記の記述を逆算すると永禄8年(1565年)となる。

 参考文献
  結城了悟『キリシタンになった大名』(聖母文庫) ISBN 4-88216-177-X
  『寛政重修諸家譜』第二
  『峰山郷土史 上』(臨川書店,1963年)
  戸田敏夫『戦国細川一族‐細川忠興と長岡与五郎興秋―』
 
 
 

 細川興元は、細川幽斎の次男。実名を昌興(まさおき)とする史料(『武家事紀』、『信長公記』など)もあるが『寛政重修諸家譜』は興元のみを載せている。
 母は足利氏の家臣で若狭熊川城主・沼田光兼の娘・麝香。正室はいとこにあたる沼田勘由左衛門清延の娘いと、継室は嘉也(慈光院、立花宗茂養女)。もとは立花親家の正室であったが、のちに興元と再婚する。(若狭熊川城:現在の福井県若狭町(京都府・滋賀県との3県の県境))
 兄の忠興が細川輝経(奥州細川家)の養子になり奥州細川家を継いだため、興元は藤孝の和泉半国守護細川家(大阪市堺市泉北泉南)の分家として家を興した。
 
 
 
 
 

勝竜寺城時代
 永禄9年(1566年)、細川藤孝(幽斎)の次男として生まれる。 はじめ父や兄と共に織田信長に仕え、初陣となる1577年(12才)の大和片岡城(奈良県上牧町)攻めでは兄・忠興とともに一番槍の武功を挙げた。

吉原山城時代
 その後父兄とともに丹波・丹後地方(京都府大阪府兵庫県の一部)の平定に赴き、天正9年(1581年・15才)、父・藤孝が丹後へ入国した時に名を玄蕃頭興元と改め、松井康之と共に家老職に任じられた。 天正10年(1582年・16才)、当時の丹後守護職一色氏を滅亡させると、丹波郡、竹野郡網野庄、和田野など1万5千石を与えられ、10月に吉原山城に入城する。城の本丸に御陣屋を建て、二ノ丸・三ノ丸を築き、市街地を開いて城下町を嶺山(現在の京都府京丹後市、旧峰山町に位置する)と名付けた。
信長没後は羽柴秀吉に仕え、天正13年(1585年・19才)の越中富山攻め、18年(1590年・24才)の小田原征伐、文禄の役では晋州(大韓民国慶尚南道西部にある市)攻めなどに参戦した。
 
 興元にはなかなか子ができなかったため、朝鮮から帰郷したのちの文禄3年(1594年・28才)に忠興の次男である細川興秋を養子に迎えている。 この時すでに興秋は実母・ガラシャにより洗礼を授かっていたが、興元は興秋・ガラシャが洗礼を受けていることは知らなかった。しばらくののち、興秋の行動や侍女・乳母たちの話からキリシタンであることを悟り、これをきっかけにキリスト教の教えを学んでいった。夏にはガラシャの薫陶や家臣加賀山隼人(洗礼名ディオゴ)、高山右近の勧めもあり、これを受諾して洗礼を受けてキリシタンになっている。その後のキリシタン興元とキリシタン弾圧
秀吉没後は徳川家康に仕え、関ヶ原の戦い、その前哨戦である岐阜城攻め、その後の福知山城攻めにおいても細川隊の先鋒として奮戦した。
 
小倉城時代
 関ヶ原合戦後、忠興が豊前(福岡県北九州市から大分県宇佐市一帯)へ国替になるとそれに従い慶長5年(1600年・34才)小倉城代(北九州市小倉)を勤める。(兄の忠興は中津城(大分県中津市)へ入場し、慶長7年(1602年)に、興元出奔後に大規模な小倉城を築城する)

近畿での隠棲時代
 しかし兄・忠興と不仲になり慶長6年(1601年・35才)12月、隣国(筑前国「福岡藩(黒田藩)」の黒田長政に助力を得て出奔する。その後は自安(持安)と名乗り、堺の妙国寺で数年過ごしたのち父・幽斎を頼って京都の小川屋敷で隠棲した。慶長10年(1605年・39才)頃の京都には幽斎のもとに、忠興の子である忠隆(のちの長岡休無・慶長9年に廃嫡)・興秋兄弟もともに暮らしている。 慶長13年(1608年・42才)春、駿府において徳川家康の仲介で兄・忠興と和解する。
 
茂木藩立藩
 幽斎死後の慶長15年(1610年・44才)、徳川秀忠から関ヶ原での勇猛果敢さを認められ下野国芳賀郡茂木に1万石を与えられて大名に列した。 真実は定かでないが、秀忠は興元に10万石を与えようとしたところ、不仲の兄・忠興の反対で1万石になったといわれている。
[要出典] 慶長19年(1614年・48才)からの大坂の陣にも参戦し、酒井忠世に属した。翌年夏の陣においては5月7日阿倍野へ進軍する際、酒井忠世の嫡男である忠行の軍を指揮し自らも敵を討ち首十四級を得ている。[4]
 
谷田部藩立藩
 大坂の陣での戦功により元和2年(1616年・50才)には常陸国筑波・河内両郡に6,200石を加増され、拠点を茂木から谷田部へと移し谷田部藩を立藩する。また翌年元和3年(1617年・51才)には将軍・徳川秀忠の御伽衆に任命される。

逝去
 元和5年(1619年・53才)3月18日、江戸で53歳(57歳という説もあり)で死去。跡を沼田氏の娘が慶長9年(1604年)に産んだ興昌が継ぎ、谷田部藩は廃藩置県まで存続する。
墓所は栃木県芳賀郡茂木町の能持院。元々は茂木氏の菩提寺だったが、興元が茂木に封ぜられてからは9代領主興貫公まで細川氏の菩提寺となっていた。
 墓碑は存在しておらず、代わりに墓の上に杉の木を植え廟の前に没年月日を陰刻した石灯籠を設けている[5]。またこの細川家の墓所は栃木県指定史跡となっている。 おなじく栃木県芳賀郡茂木の八雲神社参宝殿には、興元を御祭神とする大光神社所蔵の御神宝や、興元が初陣で用いたとされる甲冑など茂木細川家ゆかりの宝物、古文書などが所蔵されている。

 
 
 
 
 

【参考】

茂木藩(ウィキペディアより)
 
茂木藩(もてぎはん)は、下野国芳賀郡茂木(現在の栃木県芳賀郡茂木町)に存在した藩。当初は茂木陣屋に藩庁が置かれた。
 
藩史
 藩祖は細川藤孝(幽斎)の二男で、細川忠興の弟である細川興元である。慶長15年(1610年)の茂木氏の秋田転封の後をうけ、27ヶ村1万54石で入部した。元和2年(1616年)、興元は大坂夏の陣における軍功により常陸国筑波郡谷田部6200石を加増され、藩庁(陣屋)を谷田部に移す。以後、谷田部藩として存続した。
 なお藩庁を谷田部に移転して以降も茂木に藩主及び藩主一族が住することもあり、寛政重修諸家譜の細川興徳の記載に「茂木あるいは谷田部に住し」とある。
 明治4年(1871年)2月、谷田部藩主細川興貫は藩庁を茂木に移したが、同年7月には廃藩置県で廃藩となった。この時の茂木藩は、熊本藩の支藩という位置付けであった。

歴代藩主
 細川家
  1万石 外様     細川興元
 廃藩
  細川家
  1万6200石 外様  細川興貫

茂木県
 茂木県は、1871年8月(明治4年旧暦7月)の廃藩置県により茂木藩に代わって設置された県。全国的な府県再編により、同年12月25日(旧暦11月14日)(旧)宇都宮県等と合併し(新)宇都宮県になる。
 
廃藩直前の領地
 旧谷田部藩領のうち他藩に編入された地域を除き、常陸国河内郡4村(旧旗本領)、筑波郡8村(旧旗本領6村、旧幕府領3村)、下野国芳賀郡1村(旧旗本領)が加えた地域。なお相給が存在するため、村数の合計は一致しない。
 
 
 

谷田部陣屋(ウィキペディアより)
 
 谷田部陣屋(やたべじんや)は常陸国筑波郡谷田部(現在:茨城県つくば市谷田部)にあった谷田部藩の藩庁である。

概要
 藩祖は細川藤孝(幽斎)の次男、細川興元である。兄の細川忠興と上手くいかず、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの後に細川氏を出奔し、徳川秀忠に召し出され、慶長15年(1610年)下野国茂木藩にて1万石を与えられ諸侯に列した。
 その後興元は大坂の陣にて戦功を挙げ、元和2年(1616年)常陸国内に6千2百石を加増され、元和5年(1619年)に細川興昌によって陣屋が谷田部に築かれ、茂木の陣屋から移転した。敷地面積は約6,800坪(約22,400m2)、建物は約120坪(約396m2)であった[1]。明超寺を大手門前に移動させ、その跡に陣屋を整備した[2]。
 小藩のため宗家の熊本藩に財政面で頼らざるを得なかった。
 最後の藩主である第9代細川興貫は陣屋を茂木に移し、戊辰戦争で明治政府軍として参戦している。移転後も谷田部支庁として利用され、廃藩置県後は筑波郡役所となった[1]。

遺構
陣屋址は谷田部小学校の敷地となり、遺構としては御殿玄関が公民館玄関として小学校前に移築されている[3]。改修が多く施されているものの、細川氏の九曜紋が屋根に残されている[1]。また、陣屋門が市内北中妻の民家に移築されている。


 
 
吉原山城

 興元が天正年間に入場した城。京都府京丹後市(旧中郡峰山町)
(https://ameblo.jp/hoshigane/entry-10250861241.html より)

 この城は中世、吉原氏の居城でした。吉原氏は丹後守護・一色氏の有力な被官としてその名が見えるのですが、そもそも吉原山城は嘉慶2年(1388)、一色詮範が築き、その子孫が吉原氏になった、との伝承があります(吉原は一帯の地名)。しかし、一色氏の戦国期の動向が不明であるのと同様に吉原氏の歩みに関しても不詳な点が多い。
 天正8年(1580)には丹波の波多野氏の残党を受け入れたため、明智光秀・細川藤孝勢によって城を攻略されました。
 この時、吉原西雲の名が登場します。その一方、一色氏最後の当主となる義有の甥には吉原義清と言ふ人物がおりまして・・・。義有と義清は混同されることもありますが、天正10年、義有が細川氏によって謀殺されると、義清は弓木城に入り抗戦、あえなく敗れました。元、義清の居城たる吉原山城でも戦いがありましたが、やはり落城の憂き目に―。
かわって入城したのが細川藤孝の次男・興元で、石高は1万5千石。早速、一帯を゛嶺(峰)山゛と改めて城を改修し、城下町を整備します。本丸を゛陣屋゛と称し、吉原氏時代の西の丸を二の丸として楓を植えました。興元の治世下にあって20年近く―、関ヶ原合戦後、細川氏は転封となり、城は廃城、時を経て京極氏が麓に陣屋を構へました。
なお、興元は後に常陸(茨城県)・谷田部藩主となっています。
 
 
 
 
小倉城
 細川興元が城代を勤めた城
(http://www.kokura-castle.jp/about/ より)

 小倉城の歴史は、戦国末期(1569年)、中国地方の毛利氏が現在の地に城を築いたことから始まります。その後、高橋鑑種や毛利勝信が居城し、関ヶ原合戦の功労で入国した細川忠興によって、1602年に本格的に築城が始まり約七年の歳月を要しました。
 忠興は城下町繁栄策として、諸国の商人や職人を集めて商工業保護政策を実施。外国貿易も盛んにし、同時に祇園祭りも誕生させました。
 細川氏熊本転封の後には、播磨国明石から細川家とは姻戚関係にある譜代大名の小笠原忠真が、1632年に入国。小倉・小笠原藩は、将軍・徳川家光から九州諸大名監視という特命を受けていました。
 この時期、小倉は九州各地に通ずる街道の起点として重要な地位を確立し、同時に小倉城は一層充実し、城下町も繁栄しました。
 
 
 

 
 
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